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満65歳に達した僕は完全にリタイアしました。

トランプ政権のこと、ウクライナのこと、ガザ地区のこと、防衛力のこと、そして物価高騰で貧困化する日本経済のこと。書きたい事は山ほどありますが、今後一切書きません。だってリタイアしたのですから。

なぜ今リタイアなのか。について理由を赤裸々に細かく書いておこうと思います。

今から45年前、僕は国立大学を卒業して社会人1年生になりました。けっこう高給の職場でしたが給与明細を見るとずいぶん金額が引かれていました。何もわからない僕は人事に行って、説明をしてもらいました。「源泉所得税というのは何となく分かるんですが、この社会保険料というのは何なんでしょうか?」

人事の人は優しく教えてくれました。「ああ、それですね。まず健康保険料というのがあって、勤め人の場合は医療費が自己負担一割で済むのです。」「え、病院代がたった一割で済むのですか。それは素晴らしい!」(今は勤め人の場合も自営業と同じ三割負担に変えられましたが)僕は小踊りしそうになりました。人事の人は続けました。「それから一番金額が大きいのが厚生年金保険料といのがありますね」「何なんですか、その年金とやらいうのは?」「うーん、年金については説明するのが難しいのですが、簡単にいうと人間だれでも高齢になると働けなるでしょう。それで65歳になると老後の面倒を国がお金を払って暮らしていける、という制度ですよ。」

社会人1年生の僕には65歳という年齢がピンときませんでしたが、確かに、と納得しました。そして社会保険庁と書かれたオレンジ色の年金手帳をもらいました。(今では厚生労働省のブルーの手帳ですが、同じものらしい、と言われました。)

そうか、65歳になれば働かなくても国から給料がもらえるようになるんだ。僕の頭に刻み込まれたのは、その一点だけでした。そして自分の人生設計を確実に決定しました。それは今でも変わりません。働けるうちは全力で働く。そして65歳になったらリタイアして国からもらえる年金とやらで悠々自適の生活を送る、という人生設計でした。

若い頃の僕は、当時は過労死なんて言葉もありませんでしたから、24時間土日もなく猛烈に仕事をしました。おまけに当時の僕の仕事内容は非常に面白かったので、全く苦になりませんでした。体力もありましたしアイデアもあふれるようにわいてきました。「趣味は仕事」と公言してはばかりませんでした。40歳が近づいてきたころ、職場の先輩から言われました。「うちの職場では40歳を過ぎたら、出世を考えて役人になるか、番組を作り続けるためにプロダクションの親父になって電卓を叩くか、この二択しかないんだ。それで俺は悩んでいる」当時の僕には全く意味がわかりませんでした。ただ管理職になったらネクタイを締めるように言われる、という話は聞いたことがありました。またなぜかディレクターとかプロデューサーというカタカナの肩書きは現場で走り回る人の肩書きで、偉くなったら何とか部長とか副部長とか局長とか漢字の肩書きに変わるというのも奇妙な習慣だなと思っていました。

今から考えると東京帝国主義大学の法学部出身の職員は、大抵の場合役人になるコースを選択していたようです。スーツを着てネクタイを締め、霞ヶ関との交渉が仕事でした。霞ヶ関の担当者はわりあい大学時代の同級生だったりして、馬があったのかもしれません。出世など興味がなく、「趣味は仕事」という僕は、当然番組を作り続けるコースを選びました。漢字の肩書きなんかも欲しくはありませんでした。カタカナの肩書きで十分楽しいのです。

年金制度もコロコロ変わるようだし、介護保険というのも始まりましたが、給料から少々天引きされる額が変わるくらいで、一々計算なんてしていられませんでした。僕は最初に立てた人生設計の通り、働けるうちは全力で働く。そして65歳になったらリタイアするという方針を貫き通しました。

話はちょっとずれますが、昭和一桁世代の父親は、戦前、戦中、戦後と体験してきたわけで、戦後は高度経済成長を作り出した企業戦士として、文字通り兵隊のように働いていました。自宅にはほとんど帰ってこず、モーレツ社員として頑張りました。65歳で年金を貰うようになり、71歳で他界しました。71歳と言っても最後の1年間は病院で入院生活ですから、実際に自宅の庭いじりなどして過ごした時間はわずか5年でした。もちろんもっと長生きする人も大勢いますから、父親の場合は多分過労でしょう。それにしてもわずか5年とは、と現実を知ってがっかりしました。ちなみに父親が現役時代にどれくらい厚生年金を払ってきたか、老後のわずかな5年間どれくらいもらっていたのか、ちっとも知りません。でもその後に専業主婦だった母親が20年間、相当な額の遺族年金をもらっていました。そこから考えると、たぶん彼らの時代には成り立つ制度だったのでしょう。でも肝心の父親本人は過労で早死にしたのです。

過労といえば僕の職場でも都市伝説として、「みんな過労で60代で死んでしまうから、共済会には年金を受け取る人がいなくて金が余っている」とか「技術職の人は強烈な電波にさらされているから、女の子しか生まれない」という都市伝説もありました。都市伝説ですから真偽の程は分かりません。当時、共済会があちこちに保養施設を作っていたのは事実です。

そんなやる気満々だった僕が突然おそわれたのが、40代になって始まった老眼です。ずっと右目も左目も視力1.5だった僕には、それが何だか分かりませんでした。ある日突然、遠視と近視が同時にやってきたのです。メガネを作ってもらいましたが、メガネを使う習慣のなかった僕には何の役にも立ちませんでした。今でもメガネはどこかに紛失したままです。「芸能人は歯が命」とうコマーシャルが当時ありましたが、まさに「ディレクターは目が命」なのです。近くにある手元の台本と、遠くにあるモニターを交互に見比べながら、指示を出すのが仕事ですから、両方見えなくなったら話になりません。

それでも僕は、近視用のメガネと遠視用のメガネを二つ、交互にかけ変えながら頑張りましたが限度がありました。さらに20代、30代の体力のある優秀な若手が次々に台頭してきて、世代間格差というのか、話題のセンスが何だか合いません。上がつかえているから下が上がれないんだよ、という声が聞こえてきそうです。それでも僕は古米としての特徴を生かした番組を作り、57歳を最後に制作現場からは足を洗いました。さすがに後塵に道を譲るべきだろう、と考えたからです。

体力もみるみる衰え、毎日の出勤が辛くなりました。24時間週7日働いていた時代とは、もはや別人です。わいてくるアイデアも今の世代に受けるようなものはちっとも出てきません。こんなに早く体力が無くなるとは想像だにしていませんでした。そこで気になり始めたのが、「65歳になれば働かなくても国から給料がもらえるようになるんだ」と社会人1年生の時に教えられた年金制度のことです。45年間全く考えてなかったことを、あらためて勉強し始めました。遅まきながら。

するとびっくり。年金制度は事実上破綻していたのです。この制度ができた高度経済成長時代、政府も年金機構もまさか今のような超少子化高齢時代になるとは、予想だにしていなかったのでしょう。医学の進歩で高齢者、特に女性は予想を上回るほど長生きするようになりました。僕の母親も93歳で年金を受け取りながらピンピンしています。その財源を支える若い労働者人口は、年々減っていきます。これは小学生でもわかる単純な算数です。破綻して当たり前です。

かといって働き手世代に多額の納付を求めれば、暴動が起きますます年金の財源は不足するので、政府としても頭を悩ませながら超少子高齢化社会に対応しようと頑張っているところです。あの手この手で。ここではあえて書きませんが、年金の繰下げ受給の推進などで、少しでも高齢者に長く働いてもらおうとやっきなのです。でも計算するとそれでは全く足りません。

今頃になって勉強し始めた僕もアホですが、とりあえず最後に声を大にして言いたい。

  • 僕が長年納めてきた多額の年金はどこへ消えた?

  • リタイアした高齢者の生活を守れ!

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