Sarugaku Elementary School, Shibuya Ward (birthplace)

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SN330013

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さて早々とリタイア宣言をしてしまった僕ですが、なにぶん根っからの文章好きという性格は、そう簡単に変わるものではありません。常に何か書いていないと落ち着かないのです。なかなか困った性根です。仕方がないので令和7年度から僕は「思い出」というカテゴリーを作りました。

ようするに今世の中で起きている政治・経済といった生々しい問題に口を出さず、ご隠居のジジイが昔話をするためのカテゴリーです。現代社会について書こうと思えば常にアンテナをピーンと張ってなければなりませんし、非常に疲れますけども、昔話ならいくらでも書けます。もうあなたの昔話は聞き飽きた、と言われるくらいに、いくらでも。

で何から書くのかと言われれば、やはり自己紹介からでしょう。マナーとして。いったい杉江義浩って何者なんだ? あーん? と尋ねられる前に自分から生い立ちについて、簡単に話しておきましょう。生い立ちと言ってもそんなに大したものではありません。よくいる日本人のありふれた生い立ちです。

生い立ちとしては東京と関西が混じっていますが、よくよく自分は関西人なのか、と考えてみるに自信を持って言えるほどではありません。今までの人生をカウントしてみると、東京での生活のほうがずっと長い。客観的に言えば東京生まれ・東京育ちというべきでしょう。にもかかわらず関西弁の方が好きだし、関西びいきなのは中学・高校という多感な数年間を関西で過ごしたからだと思います。

人間の成長にとっていわゆる思春期というのを、どこでどう過ごしたかによって、何か決定的なものが左右されるような気がします。

時系列でお話しさせてください。時は昭和。今の令和の天皇陛下がお生まれになったわずか2〜3週間後に、僕もオギャアとこの世の空気を吸いました。なので彼とは同い年で同学年だし、世の中は戦後の「ミッチー・ブーム」とやらで僕の母親も大いにその影響を受けました。僕の名前に「浩」の字が使われているのは、浩宮様(令和の天皇陛下の幼名)にあやかったものです。なんたるミーハーでしょう。

僕が産まれた場所は渋谷区広尾にある日赤産院(今の日本赤十字社中央病院)で、原戸籍によると渋谷区麻布広尾町と記されていました。ちなみに女優の薬師丸ひろ子さんもこの産院で産まれたらしく、いつだったか「なんで今の若い人たちが渋谷だとか広尾だとか言うのかわからない。だって私そこで産まれたんですもの」と言っていました。芸能人としての薬師丸さんと僕との関係はまた別の機会に書くとして、とにかく随分と立派な病院であったようです。

なんで僕が日赤産院で生まれたかと言うと、別に父親が金持ちだったわけでもなく、理由はたった二つ。まず代官山の自宅から最も近い病院だったと言うこと(自宅と言っても父親が勤めていた企業の社宅ですが)。そして「あそこなら屋上に赤い十字のマークがあるから絶対に爆撃されない」と言うことでした。なんたる時代錯誤? 昭和20年の終戦から15年も経つのに。と僕は思いましたが、戦前、戦中、戦後と生き抜いてきた父親からすると、いつ何時また空襲に遭うかもしれない。少しでも安全なところで妻に第一子を出産させたい、と言うわけだったようです。ちょっとうるっと来ました。

それでもって僕は自宅から最も近い、鶯谷さくら幼稚園(僕の学歴の中で唯一の私立)へ通い、自宅から最も近い渋谷区立猿楽小学校へ通います。この小学校が何やら作文教育に特に力を入れている(モデル校?)小学校だったようで、そのせいで僕は作文が大好きになります。毎日のように作文の宿題が出され、学友たちからは悲鳴が上がっていました。みんなが嫌がる様子を見て僕は、世の中の人々は作文が嫌いなようだ、こんなに楽しいのに、と感じていました。

そこで僕は1964年の東京オリンピックを通して、テレビと言うものの原体験をし、1970年の万博をはるばる見に行ったりして幼少期を過ごすわけです。

おっと肝心の中学時代、高校時代の話をする前に行数が尽きてしまった。次回は1964年の東京オリンピック体験から、続きを書きます。

いいなあ。素人の思い出話は気楽で。

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