手短に「生い立ち」話は終了

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昨今ニュースについて書くのは、今のトランプ政権・高市早苗ではあまりにも虚しいので、僕は令和7年度からは当たり障りのない自分の思い出話を書こうと思いました。

あえて自分の生い立ちでも書こうとしたんですが、小学生の所で止まってしまって、一向に先に進みません。そりゃそうですよね。だれが僕の生い立ちなんか興味あるのか。でもリタイア宣言をして、生い立ちの話を書きます。と明言した以上有言実行でなければいけません。

というわけで今日は中学生時代’、高校生時代の話をして、このシリーズはいったん終了としたいと思います。この時代に何があったのか。それは僕自身にとって、大きな転換期でした。中学2年まで東京で生まれ育ち、いわゆる中二病とも言われる中学2年の夏休みに大阪の吹田市立山田中学校に転校しました。

ここで僕は関西文化と初めて直面し、その壁の高さに驚愕します。東京生活55年、関西生活13年半の僕は、東京生まれ東京育ちなわけですが、喋るのは関西弁なのです。そして関西文化の方が親和性が高い。何故このような奇妙な育ち方をしたのか。

それは東京の文化と関西の文化は、似て非なる、別の国と言うべき文化圏だからです。僕は関西弁をマスターするのに1年半をついやしました。当時は大阪で東京の言葉を話すと、徹底的にいじめられました。「なになにしちゃう」と口にすると「お前は女か」と罵られ、「なんとかじゃん」と口にすると「何気取ってんねん」と馬鹿にされました。

ある意味では東京の言葉を関西弁に矯正するのは、英語とか外国語をマスターするより困難だったかもしれません。そのままでも普通に伝わるだけに、訛りのような微妙なニューアンスに気持ち悪さがありました。中学2年生の僕は、虐められないために、必死でこの言葉を勉強し、日本のバイリンガルと言ってもいいレベルまで関西弁を身につけました。中学生の僕にとって、それは死活問題だったのです。

そんな中学時代に数少ない、僕を虐めなかった友人たちと僕は「ネクサス」というロックバンドを作りました。今から考えると笑っちゃうレベルのバンドでしたが、バンドが実質的にスタートしたのは中学卒業の頃だったので、高校時代は放課後に集まって熱心に練習をしました。

まあよくある話ですよね。イエス、とかピンク・フロイドといったプログレッシブ・ロックから、ディープパープルといったハードロックまで。ほとんどがコピーでした。それはミュージシャンを目指すというより、今から思えば仲良しグループと言うべき、音楽を通じた遊び仲間だったと思います。ただ今のように譜面がなかったので、全部「耳コピー」(録音テープやレコードを聞いて、真似する)でした。だから絶対音感を身につけることになりました。

そんなこんなで、音楽一辺倒だった僕たちも高校を卒業する頃には、普通の大学受験生となりました。同じ大学の友人とバンドを組む者、いまではミュージシャンになっている者、様々です。僕は「ネクサス」活動停止と共に音楽活動をやめました。なぜならキーボード担当でありながら、ピアノもまともに弾けなかったからです。

それからの僕は独自の8ミリ映画の製作や、様々なプロの映画の現場に浸るようになりました。そこから先はもう大人の話なので、生い立ち、という範疇にふさわしくないですよね。なので自分の生い立ちについて語るのは、これで最後にしたいと思います。

ああ、杉江は大阪でこんな青春時代を送ったんだな。とだけ思ってもらえれば十分です。ではまた!

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