30年ぶりの同窓会で人生について考えてみる

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20130616-215353.jpg僕は大学を卒業してからすぐに神戸を離れてしまったので、同窓会というものに出たことがない。高校の同窓会にも出ていない。関西と東京ははかようにも近くて遠いものなのか。年賀状を出さないから、みんなの連絡先も何もかも忘れてしまった。むろんみんなからも忘れ去られてしまった。ぷっつりと縁が切れたまま30年が経過した。

生まれて初めて同窓会というものに参加できたのは、神戸大学の心理学ゼミの仲間が、インターネットで検索して僕を見つけてくれたおかげだ。やはりネットに本名でオフィシャルサイトを持っていてよかったなあ、とつくづく有り難みを感じたものである。日本人はあまりネット上で本名のオフィシャルサイトを持つ習慣がなく、芸能人か自営業でもなければ個人のサイトを持ちたがらないものだが、欧米ではけっこう普通の人も名刺代わりにサイトを持っていたりする。とまれ僕の本名で検索してくれた友人には頭がさがる思いであります。

空白の30年間をはたして埋められるだろうか?という不安が僕の心のなかには強くあった。30年といえば世代が一巡している長さの時間だ。大学生だった頃の自分たちが、大学生のこどもを持っていたり、あの頃のゼミ教授の年齢に自分たちがなっていたりする。20代の人間が50代になっているということは、そういった恐ろしく長い人生の抜け落ちが存在することを意味している。かつての友人たちと会うのは楽しみでもある反面、表現しようのない恐怖感でもあり、自分なりに相当な勇気を振り絞って出かけたのであります。(決して大げさではない)。

さて実際にみんなと合流してみると、それは杞憂であったことがすぐにわかった。僕が30年間の時を過ごしていたあいだに、みんなも30年間の人生を歩んできたのである。つまり相対的に同級生であることになんら変わりはなかった。失われた時間は、みな同様に持っている。みな平等に歳を重ねている。僕たちの間で時は止まっていた。20代の頃の我々と50代の我々は、まるでVTRをカット編集するみたいに、ガチャンとつながったのだ。失われた30年間を除いて。それは異空間にワープしたような不思議な感覚を僕にもたらした。

人生には今生きている時空間とは別の、いくつもの時の流れがある。帰ってきてからも僕はその新しく発見した感覚につつまれて、ちょっとだけ視点が変わった気分を味わっているのであります

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