The folly of taking "Mom Tomorrow" off the air.

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まだ2回しか見ていないが、日テレで水曜ドラマとして10時から放送が始まったドラマ「明日、ママがいない」は注目して見ている。脚本監修の野島伸司という男は社会派ドラマを書かせたら気鋭の才能を見せてくれるからだ。

今回もかなりタブーといえる分野に挑戦していて、とりあえず2回見た限りでは子役たちの演技力が秀逸なのが印象に残った。”親と離れて児童養護施設で暮らす子供たちの目を通して「愛すること」「愛されること」を問いかける”とするこのドラマが今、施設関係者からの抗議や、それを受けたスポンサーのCM提供見合わせなどによって、あわや放送中止に追い込まれている。本物の施設の現状からかけ離れており、実際に施設で暮らすこどもたちが傷つくから、というのがその理由だという。

本物の施設の現状とかけ離れているというのなら、刑事ドラマはどうなるのだ? 本物の警察の実態とはまるでかけ離れているではないか。去年大ヒットしたドラマ「半沢直樹」だって実際の銀行はそうではないと言われればそれまでだし、「あまちゃん」だって実際の海女さんや芸能界の現状を正確に描写しているとは言えない。そもそもドラマとはそういうものだ。フィクションによって別のもっと大切なものを描き出そうという目的があって、優れたドラマ作品はそれを見事に実現している。

社会派ドラマともなれば当然タブーにも挑戦していかなければならない。不倫はタブーだがドラマで不倫を描いてはいけないのか? 不倫を肯定的に描いてはいけないが文学的に論じることには意味がある。ドラマ「高校教師」はタブーではないのか? いじめ問題を描いた「人間失格」はどうだ? 「家なき子」はひどいドラマだったのか? 文学にタブーなどないのだ。

施設のこどもが差別を受けて傷つくから、というのも一見もっともらしい主張のように見えるが、ちゃんちゃらおかしい。全10回の放送のうちの最初の1本や2本を見ただけで何がわかるというのだ。ドラマでは初回に児童を虐待するひどい施設長が描かれているが、そのことが児童養護施設の関係者の反感をかったというのが実情だ。全く大人たちの論理だ。これについては後に詳しく書くが、単にこどもたちが傷つくから、といった生易しい問題ではない。

大人たちの論理と言えば、最初は進んで番組を提供しておきながら、ちょっと問題が起きるとすぐにCMを降りるというスポンサーたち。視聴者からのクレームが送られたからだと? そんなもん5件や10件簡単に送れますよ。キューピー、エバラ、スバル、あなた方の会社の製品はもう僕は買いませんよ。ほら、僕から一件もうクレームがついた。そんなもんに振り回されるほど、民放の編成のレベルは低いのだろうか。テレビの限界はそんな低次元のところにあるだろうか。

これがNHKだったら逆になんの問題もなく放送できるだろう。うむを言わさぬレベルまで文学的作品に仕上げ、十分な配慮と理論武装をして臨むから、表現の自由を守り通せるだろう。映画でももちろん問題ない。これは民放だから、コマーシャルで成り立っているテレビ局だから起きた問題だと言えます。

僕は声を大にして言いたいのです。自らが番組制作者として、また教育に関わる者として。

とにかく10回最後まで放送してください。それから論じようではありませんか。スポンサーが皆降りるというのなら、いっそ全部を公共広告機構の「AC」のコマーシャルで埋めてもいい。野島伸司にそれだけの才能があるのかないのか。いじめや自殺を放送の中で取り扱うには細心の注意が必要だが、それをクリアしてドラマ作品として文学的なレベルで完成することができたのか、あるいはできなかったのか。最終回まで責任を持って放送し、世に問うことがテレビ局の編成マンの任務でしょう。

何かを表現したいと思うのなら、腹を切る覚悟で臨んでもらいたいのです。作品自体をまだ最後まで見ていない僕としては、それ以上何も言うことはありません。良いも悪いも見ていない番組について何一つ論じることはできませんから。

見終わったらまたブログを書きます。

 


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