口は災いの元、無口は災いそのもの

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菅朴念仁首相を生んだ土壌

菅首相の退陣が決まったとたんに、これまで口を噤んでいた猫も杓子も誰もが、まるで石もて追うように批判の大合唱になっていると見えるのは、筆者の思い過ごしでしょうか。

多くの問題を抱えて迷走した菅首相でしたが、もっとも重大な手落ちは絶望的なコミュニケーション能力だったのではないか。

それは失策というよりも彼の人となりや気質の問題ではありました。

しかし何よりも奇妙なのは、発信力がほぼゼロの政治家が長く生き延び、あまつさえ総理の地位にまで登り詰めることができる日本の社会のあり方です。

短期間とはいえ彼が宰相の地位に留まることができたのは、無口や沈黙を許すのみならず、ほとんど賞賛さえする日本独特の社会風習があるからです。

ふたりのスター

菅首相の訥弁を思うとき、筆者はよく今は亡き銀幕の大スター高倉健と、大相撲の人気力士遠藤を連想します。

そこで日本人に愛される2人の例をひいて、日本人とコミュニケーションについて考えてみたい。

なお、あらかじめ断っておきますが、筆者は健さんと遠藤の大ファンです。

健さんの映画はたくさん観ました。寡黙な男の中の男。義理や人情のためなら命も投げ出す「ヤクザの健さん」はいつもまぶしくカッコよかった。

力士の遠藤は、足が天井にまで投げ上げられるかと見える四股の美しさと、相撲のうまさが際立っています。もはや30歳にもなって出世は高くは望めないかもしれませんが、いつまでも気になる力士です。

彼らふたりは通常の意味でのコミュニケーション力はゼロ以下です。だがそのことは健さんが優れた俳優であり、遠藤が優秀な力士である事実をなんら傷つけません。

ムッツリ遠藤

遠藤はNHKの大相撲中継において、横綱・大関を倒したときや勝ち越しを決めたときなどにインタビューされる。そのときの彼の受け答えが、見ている者が苦しくなるほどに貧しい。

相撲取りはしゃべらないことが美徳という暗黙の掟がある。しゃべる男は軽い、という日本のある種の社会通念に縛られて、無理やり感情の表出を抑える。

そしてその同じ行為を続けるうちに、習慣は彼らの中で血となり肉となってついには彼らの本性にまでなります。相撲社会全体を覆っている無言の行という風儀は、人工的に作られたものです。しかし、もはやそれが自然と見えるまでに浸透しています。

しかし、遠藤の受け答えは自然ではない、と筆者の目には映ります。自らを強く律して言葉を発しないようにしていると分かるのです。だがその仕方に相手、つまりインタビューアーへの配慮がありません。

「遠藤自身がインタビューを迷惑がっている」と分からせることを意識しているのか、顔や態度や言葉の端々に不機嫌な色を込めてしゃべります。それは見ていてあまり愉快なものではありません。

遠藤のインタビュアーへの反感は、巡りめぐってファンや視聴者への反感として顕現されます。それはつまりコミュニケーションの否定、あるいは彼自身が理解されることを拒絶している、ということです。

遠藤のあまりの言葉の少なさと、少ない言葉に秘められた一種独特な尊大さは、力士としての彼の力の限界が見えてきたことと相俟って、見ていて悲しい。

遠藤はかつて、大関くらいまではスピード出世するのではないかと見られました。だが、相撲の巧さが即ち相撲の小ささになってこじんまりとまとまってしまい、大関は夢のまた夢状態になりました。

だがそれは彼のプロ力士としての力の現実であって、コミュニケーションを拒む彼の訥弁とはむろん関係がありません。彼の訥弁を良しとする日本文化が問題なのです。まるで相手を見下すのでもあるかのような遠藤のひどい訥弁も許されるから、彼は敢えてそれを改善しようとは考えない。

そうはいうものの、しかし、大相撲のダンマリ文化から開放された力士が、突然あふれるように饒舌になるのもまたよくあることです。最近では 稀勢の里の荒磯親方が、引退したとたんに大いなるおしゃべりになって気を吐いています。

また元大関琴奨菊の秀ノ山親方 、同じく豪栄道の武隈親方 なども、引退して親方になるや否や饒舌になって、大相撲解説などで活躍しています。 

彼らは心地良いしゃべりをするなかなか優れたコミュニケーターであり、語り口や語る内容は知性的でさえあります。

そうしたことから推しても、力士の無口は強制されたものであることが分かります。遠藤のケースも同じなら、彼は現役引退後にハジけて大いなる“おしゃべり”になるのかもしれません。

だんまり健さん

高倉健の場合には、2001年5月に放送されたNHK『クローズアップ現代』で、国谷裕子のインタビューを受けた際に、彼の“反コミュニケーション”振りが徹底的に示されました。

健さんはそこで国谷キャスターの質問の度に、じれったくなるほどの時間をかけて考え、短く、だが再び時間をかけてゆっくりと答えていきます。

それは何事にも言葉を選んでしっかりと答える、という彼の美質として捉えられ、確立し、世に伝えられてもいる内容なのですが、筆者の目には「言葉を選ぶ」というよりも「言葉が無い」状態に見えました。

あるいは考えを表現する言葉が貧弱、というふうにも。

その後はインタビューを介して、彼がスクリーンで演じる役柄と生身の高倉健自身が交錯し、合体して分別が不可能なほどに一体化していることが明らかになっていきます。健さん自身もそのことを認める展開になります。

個人的には現実の人身と役柄が渾然一体となる状態は優れた俳優の在り方ではない。しかし、高倉健という稀有な存在が、生身の自分と銀幕上の個性をそれとは知らずか、あるいは逆に意識して、融合させて生きている現実が明らかになるのは興味深い成り行きでした。

彼は男らしい男、男の中の男、また義理人情のためなら命も投げ出す高倉健、という日本人が好きなコンセプトに自身をしっかりとはめ込んで生きているのです。

そして「高倉健という人間」が、本名の小田剛一も含めて「俳優の高倉健」と完全に合体している姿に、彼自身が惚れています。

彼が惚れて自作自演している高倉健は、韜晦し過ぎるほどに韜晦する人間で、しかも彼自身はその韜晦するほど韜晦する高倉健が大好き、とういうのが彼の生の本質です。

高倉健と力士遠藤は、韜晦し過ぎで且つ韜晦する自分が好きな男たちなのです。

健さんも遠藤も誰をはばかることもない成功者であり有名人です。むろんそれで一向に構わない。それが彼らの魅力でもある。なぜなら「韜晦」は日本人のほぼ誰もが好きな概念だからです。

目は口ほどにはものを言わない

一方、日本人のコミュニケーション力というコンセプトの中では、それらの朴訥な態様はきわめて陰鬱で且つ深刻な命題です。

「口下手を賞賛する」とまでは言わなくとも、それを忌諱もしない日本文化があって、健さんの寡黙や遠藤の無言、果ては菅首相の訥弁が許されています。

繰り返しますが、それはそれで全く構わないと思います。なぜならそれが日本の文化であり、良さです。おしゃべり過ぎる例えばここ欧米の文化が、逃げ出したくなるほど鬱陶しい場合も多々あるのです。

言うまでもなく人のコミュニケーションや相互理解や国際親善等々は、言葉を発することでなされます。

言葉を用いないコミュニケーションもむろんあります。表情やジェスチャーや仲間内の秘密の符丁やサインなど、などです。

しかし思想や哲学や科学等々の複雑な内容の意思伝達は言葉で行われます。それ以外のコミュニケーションは、動物のコミュニケーションと同じプリミティブな伝達手段です。

人間のコミュニケーションは「おしゃべり」の別名でもあります。しゃべらなければ始まらないのです。

ところが日本にはおしゃべりを嫌う沈黙の文化があります。寡黙であることが尊敬される。この伝統的な精神作用が、日本人を世界でも最悪な部類のコミュニケーターにします。

自らの考えを明確に伝えて、相手を説得し納得させて同意を得るのがコミュニケーションの目的です。

同時に相手の反論や疑問も受け入れて、それに基づいてさらに説得を試みる。そのプロセスの繰り返しがコミュニケーションです。

おしゃべりであるコミュニケーションは、井戸端会議の「おしゃべり」に始まって、社会的な重要さを増すごとに「しゃべり」「話し合い」「議論」「討論」「討議」「対話」などと呼ばれます。

言葉は暴力抑止デバイス

それらは全て暴力や闘争や威圧や戦争を避けるために人間が編み出した手段です。

自然的存在としての人間、あるいは生まれながらの人間は暴力的です。人の行動は生存のためにアグレッシブにならざるを得ません。

そうでない者は食料を得られず、飢えて淘汰される可能性が高い。それが動物の生存原理であり自然の摂理です。

人の暴力性を和らげるのが言葉です。言葉は発信され、受け止められ、反応されることで言葉になり意義を獲得します。つまりコミュニケーションです。

コミュニケーションは積極的に「しゃべる」者によってより洗練され研ぎ澄まされ、改善されていきます。

世界中で行われてきたこの慣行は、人種が交錯し人流が激しい欧米では間断なく練磨が進みました。違う人種や国民間では対立が激しく、コミュニケーションが無くては血で血を洗う闘争が繰り返されるからです。

争いが絶えない欧米では、紛争毎にコミュニケーションの訓練も加速しました。

一方日本では、封建領主による言論・思想弾圧に加えて、単一民族と国民が誤解するほどに似通った人種や同言語話者が多かったことなども手伝って、コミュニケーションの重要性が薄かった。

そのために、島あるいはムラの人々の間で、お互いに察し合うだけで済む「忖度・あうんの呼吸」文化が発達し、今日にまで至りました。

何度でも言いますが、それはそれで全く構わないと思います。多くを語らなくてもお互いに分かり合える、というのは心が和む時間です。そこには日本の美が詰まっています。

しかしながら、日本が「世界の中の日本」として生きていく場合には、日本人同士でしか理解し合えない寡黙や無言や訥弁はやはり不利です。いや、それどころか危険でさえあります。

日本はそろそろ重い腰を上げて、討論や会話や対話を重視する教育を始めるべきです。また重い口を開いて、世界に向けて自己主張のできる者をリーダーとして選択するべき、とも考えます。

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