1960年代杉江家長浜

先日書いた僕の生い立ちは、オギャアと誕生から猿楽小学校まで書きましたよね。そんなもん誰も読みたくは無いだろうなと思いつつ、筆が滑べる僕の悪いクセで余計な無駄話を長々と書いてしまいました。僕の生い立ちということで古いアルバムを探していたら出てきました。杉江家に現存する最古のカラー写真、と言っては大げさか、父と母が結婚した頃の(つまり僕が生まれる前の)写真。

テレビ番組でいえば「ファミリー・ヒストリー」風に書こうと思ったのですが、父の実家はごくありふれた田舎の農家でした。おまけに父は次男だったので後継にはならず(その当時は長子相続の時代だったので、我が家は分家と呼ばれていた)ごく普通のサラリーマンになりました。面白いネタなど全くありません。むしろ近江商人だった母の実家の方が、波乱万丈でネタ満載です。

母の実家は江戸時代から続く「数珠屋の平兵衛」という商家でした。元々は京都に仏具を売りに行って一儲けした、今で言う霊感商法みたいなもんだったのではないか、と僕は想像しています。この根拠は五木寛之の小説に出てくる、仏具の「おりん」を当時隆盛を極めていた京都の寺々や、裕福な家庭に売る手法です。五木さんの小説によると、まず二人一組になり、別々に旅の僧侶として寺を訪ねていきます。一人目の人物が「お宅の仏さんを拝ませてくれまへんやろうか?」と上がり込み、拝んでいるうちにこっそり「おりん」を割れた物に取り替えてしまいます。しばらくしてグルになっていた二人めの人物が「なんや良うない気が漂ってまんな」とその寺を訪ねていき、気になった住職や主人が仏具を改めて見ると確かに仏具が壊れている。ああ、やっぱりでっか、と言うことで新しい仏具を売りつける。

これはあくまで五木寛之のフィクションであり、僕の母の実家である平兵衛さんが売っていたのは、おりんではなく数珠でした。でも当時仏教で栄えていた京都を舞台に、滋賀から来た近江商人たちが成り上がったと言うのは史実のようです。まさか自分のルーツがこんな霊感商法というか、むしろ詐欺をやっていたとは思えません。せいぜい古くなって糸が切れそうな数珠を使っている人に、新しい数珠を売っていた、くらいの商売だったと思います。

平兵衛さん一族は僕の知る限り、様々な分野で商いを広げていきます。呉服屋、荒物屋、などの親戚が彦根城の近くに店を出していたのは僕自身が目撃した情報です。母親は糸屋の末っ子として生まれました。ここからは母から聞いた情報ですが、母は「糸屋のこいさん」と呼ばれてチヤホヤされて育ったようです。母は炊事をはじめ家事全般が全くできず、「あんなもん、でっちがやるこっちゃ」と時代錯誤なことをよく言っていました。僕が中学生の時に母に、どうして母さんは部屋を片付けないの?と聞いたら「お父さんがお手伝いさんを雇う甲斐性が無いからよ」と言ってのけました。

それには僕も椅子ごと後ろにひっくり返るくらい驚きました。事実、僕は母の手料理というものを食べたことがなく、中学時代の昼ごはんは学校に売りにくる菓子パンと決まっていました。サラリーマンの妻になったのだから、変なプライドは捨てて、というか仮にでっちが日々の賄いを作るとしても、自分で美味いものを作ろうとしないのか。それを母にぶつけたことがあります。母からは「お父さんがそれで文句を言ってないのだから、それでいい。あんたの妻になったわけじゃない」と、逆に言いくるめられてしまいました。

高校生になったある日、とある当時のガールフレンドの家を訪ねた時、「何が食べたい?」と聞かれてハンバーグ、と答えました。そして出てきたハンバーグが僕にとってはこの世のものとは思えないくらい美味で、世の中にはこんな美味しい料理を作れる女性がいるのか、とコペルニクス的転換をしてしまいました。作った本人は覚えていないでしょう。「別に普通だけど」と逆に不思議がれましたから。

こんな風に自分の母親のことをボロクソに書いているようですが、そんな母にも特技がありました。彼女の特技は、どんな絡まった糸でもほどける、という特技でした。事実、僕が出来損ないのスパゲティーのように絡まったケーブルを持っていくと、彼女はあっという間に見事に解いて見せました。「私に解けない糸はない。私は糸屋の娘だから」と彼女は言いました。「どんな絡まった糸でも元は一本の糸なのよ」という彼女の言葉には、妙に説得力がありました。

さて、そんな母といい、僕を産ませるために爆撃を避けて広尾の日赤中央病院を選んだ父といい、今の僕を形作っているルーツであることは避けて通れません。今の日本の常識からするとかなりイッチマッタ両親であり、ご先祖様ですが、僕からすれば自分の生い立ちを語る上で欠かせないと思い、あえてそこまで遡って今回はブログを書きました。

次回からは前回の渋谷区立猿楽小学校に続く、渋谷区立鉢山中学校から大阪の吹田市立山田中学校。つまり僕自身の生い立ちの話に戻ります。と言っても、どちらも日本のありふれた公立中学校ですから、それ自体はそんな面白い話があるわけではありません。写真を並べてみましょうか?

まず渋谷区立鉢山中学校。

そして転校先の吹田市立山田中学校。

ね?変わり映えしないでしょう?

でも東京でオギャアと生まれてから13年半東京で育った僕が、思春期に大阪に転校し、それからさらに13年半大阪で育ったことは、多感な少年に劇的な化学反応をもたらすのです。そしてそれから40年、社会人になり東京で過ごしたわけですから、合計の東京生活54年間に比べると大阪生活の13年間は単純計算するとごく短いわけですよね。でも人格形成という意味では、とても大きなものでした。その話を次回の思い出話でしたいと思います。

渋谷区立鉢山中学校は、ただ自宅の近くにある公立中学校というだけで、そこで僕はバスケットボール部に入るわけですが、中学2年の夏休み中に親の転勤で引っ越した僕には中途半端な記憶しか残りませんでした。ですからその思い出話は、思いっきり端折って、いきなり山田中学校の話をしたいと思います。文字通り「中二病」というべき、僕の青春時代のこっ恥ずかしい話です。その話をする前にご先祖様たちの話をクッションとして挟んだわけですが、そうでもしないとショッキングすぎて書けないのです。

ご先祖様たちごめんなさい!

ああ、来年のお盆には久しぶりに墓参りでもしようかな。

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