トランジスタ・ラジオ

前回の「なぜ今NHK ONEなのか?」の記事にも書きましたが、通信と放送は真逆の概念なのです。通信は1対1の情報のやり取りであって、通信の秘密という強い概念のもとにあり、一方で放送は広くあまねく情報を伝えるものです。絶対に相容れない概念。なので通信と放送の融合というのは、技術の発展した今でこそなんとなく実現したかのように見えますが、基本的なものは変わっていません。
通信というのは、例えば電話をイメージしていただければわかると思います。盗聴なんてされたらえらいことです。放送というのは自治体が大きなスピーカーで流す防災放送をイメージしてください。防災放送は誰一人として聞き漏らす人がいないように大音量で流します。これらの相反する二つの概念の狭間で、NHKはあえて公共放送(国営放送ではない)として、受信料制度を作り、維持しています。
今回は僕の大好きなトランジスタ・ラジオを例に、放送に対する個人的な思い出を語ります。なぜトランジスタ・ラジオなのかって? 僕は幼少期から思春期にかけて、とにかく猛烈なラジオ・オタクだったからです。それもSONYの。あの小さな筐体から流れる、決していい音とは言えないノイズだらけの洋楽が、僕の気分を一瞬にしてハイにしてくれました。当時はGHQ向けのファー・イースト・ネットワーク(FEN)が最高のチャンネルでした。今ではAFNに統合されていますが、とにかくDJが抜群にカッコ良かった。
それ以外に洋楽というものにアクセスできる方法はありませんでした。レコード屋さんに行ってもクラッシックか邦楽(演歌)のコーナーしかなく、のちにNHKの異端児、ライブハウス「渋谷屋根裏」オーナーの息子、伝説の波多野絋一郎ディレクターが作った「ヤング・ミュージック・ショー」という番組が洋楽を紹介するまで、誰も洋楽を知らなかったのです。波多野さんの仕事は、僕自身も新人時代にちょっとお手伝いさせてもらった記憶があるので、そんなに昔の話ではありません。あとは洋楽の宣伝番組「MTV」が一時流行っていました。
マドンナやシンディー・ローパーを食い入るように見ていたのも最近の話です。僕が民放の番組で「ソウル・トレイン」というアフリカ系アメリカ人がダンスを伴って見せてくれる番組も好きでした。おっと話が逸れました。僕が語ろうとしているのは、それよりはるか以前、テレビではなくラジオの話でしたね。みなさん昔のラジオの音質としてよく耳にするのは、1945年の終戦の命(玉音放送)ではないでしょうか。ノイズだらけの中で天皇陛下が「耐え難きを、耐え」とお言葉を述べられる、歴史的な放送です。
当時の日本の技術では最高レベルの録音でも、あの放送の音質です。興味ある人は愛宕山にある放送博物館に行ってみると良いかと思います。なかなか面白いし、僕なんかの記事を読んでいるより百聞は一見にしかず、ですから。あんな音質で音楽なんか聞く気になりませんよね。で、自宅で聴くのはLPレコードという、今もあるビニール版レコードでもっぱらクラッシック音楽でした。再生装置はでかいタンスのようなステレオでした。そんな中でまともな音質でポップスが聴けるラジオとして出現したのがSONY TR-55という1955年に発売されたものだったらしいです。
とても庶民に手が出る値段ではなかったし、当時理系だった僕はむしろラジオの仕組みに興味が行っていて、アマチュア無線に手を出したり、自宅のテレビ(白黒)を分解したりしていました。僕が小学生の時はもう街に洋楽が溢れていましたが、僕はそれより自分でラジオを作る方に走っちゃったんでしょうね。既製品のラジオとしては(こんなもの誰が買うんだろう)扱いきれないSONYスカセンサーという機材を購入してしまいました。
こんなやつです。時代はもはや完全にテレビの時代になっていましたから、僕が手にした既製品のトランジスタラジオとしては最終モデルです。そして小学生の僕は、なんとトランジスタラジオを自作するという、無謀な試みを始めました。当時の秋葉原といえば、今とは違ってアイドルもいなければメイドもいない、むさっ苦しいおじさんたちが部品を探して買いに行く日本一の電気街でした。そこで僕はコンデンサー、コイル、ゲルマニウムダイオード、といった部品を集めてきて、最初はまず教科書通りにゲルマニウムラジオを作りました。
ラジオの原点とも言える、このゲルマニウムラジオは、トランジスタ(足が3本出ててやや難易度が高い)と比べて、初歩の初歩です。そして必須なのがゲルマニウムダイオードと呼ばれる部品でした。電極は二つだけ。片一方の電極からもう片一方へは電気が流れるけども、反対方向には流れない。銅や鉄のように電気を流す導体でもなければ、ゴムやビニールのように電気を流さない不導体でもない。そのことからゲルマニウムは半導体と呼ばれていました。そうです、シリコンバレーに象徴される、今の世界を大騒ぎさせている半導体産業は、ここから始まったのです。
ふう、やっと現代の話題に戻れた。今やコンピュータやスマホに欠かせない半導体の原点はここにあったのです。僕が秋葉原で買ったトランジスタは、指でつまめるくらいの1個が1センチくらいの大きさでした。今ではトランジスタが一つのシリコンチップの中に何億個と入っているそうです。もちろん僕が見てきたわけではありません。顕微鏡でも見えないCPUの世界ですから。顕微鏡でも見えないくらい小さくなった半導体は、1つの分子が隣の分子と近すぎるということで、次は量子コンピュータが開発されているそうです。桁が違いますね。
ちなみにゲルマニウムラジオの回路図は、こんなシンプルなものです。
アンテナは分かりますよね。アースも大地のことですから分かりますよね。イヤホンも昔からある音の小さいやつです。で僕は秋葉原で元祖半導体であるゲルマニウム・ダイオードを買ってきます。コイルは鉛筆の周りに銅線をグルグル巻いて自作します。バリコンというのはバリアブル・コンデンサーの略です。コンデンサーは互い違いにちょっと隙間を開けて金属を並べたもので、電気を一時的に貯める電池のような役目を果たします。そのコンデンサーの容量を調整しつつ、コイルの組み合わせで、必要な周波数の電波に合わせて同調するわけです。
ツワモノはこのバリコンさえ自作するらしいですが、手先が不器用な僕はおとなしく秋葉原で既製品のバリコンを買ってきました。自作のコイルは不器用な僕らしく、できそこないの代物でしたが、市販のバリコンがうまく合わせてくれてちゃんと周波数を調整してくれました。かくして自作のラジオは完成しました。小さな音ですが鳴ってくれました。このゲルマニウムラジオ、なんと電池さえいらないのです。空気中を飛んでいる電波を捕まえて、それに同調して動いてくれるのです。これには感動しました。
さて次のステップはトランジスタ。ここで僕は挫折してしまいます。手先があまりにも不器用だったため、半田付けがうまくいかないのです。ゲルマニウムダイオードの時は足が2本でしたが、3本になったらもうどれがどれだか見分けがつかず、ハンダはダマになってぐちゃぐちゃ。そうこうするうちにハンダゴテを熱くしすぎて、肝心のトランジスタをダメにすること数回。。。諦めました。
自作はできなかったものの、トランジスタについて若干の知識は得ることができました。そこで僕の理系人生は終わり(と言っても高3までは理系だったのですが)。それからはもっぱらトランジスタラジオを作るのではなく、そこから聞こえてくる音楽に夢中になっていきます。学校の授業をサボって屋上に上がり、トランジスタラジオで心を和ませる。忌野清志郎さんの歌詞が身に沁みます。手先の不器用さから外科医になる夢も消え、大学受験にかける情熱もどこへやら。
そして中学、高校と今度は真剣にミュージシャンになろうと無鉄砲なことを考え始めます。その話で次回こそは自分の生い立ちについて語る、本来の「生い立ち」カテゴリーに戻るつもりです。今回はすっかり技術の話にハマってしまい、文系のみなさんには失礼しました。とりあえず今日は、電波というものは電力でもあるということ。そのことだけご理解いただければ満足です。
受信料制度についてはあえて書きませんが、そんなことこちらの記事に詳しく書いてあるので、そちらをご覧ください。また直近のニュースとしては高市早苗自民党新総裁が、公明党にさえふられてしまって、ざまあみろ、という気分ですがそういう話も今はしたくないので、当面はニュースを見てない杉江義浩として書いていきます。ではまた。
###
杉江義浩のWebログをもっと見る
購読すると最新の投稿がメールで送信されます。