禁煙できない人の気持ちがわからない
他人の苦しみのわからないような人間はろくなもんじゃない。だから僕だって少しは理解したい。タバコをやめたくてもやめられずに苦しんでいる人の気持ちを。あるいは禁煙に果敢にチャレンジして、断末魔の中からも強靭な意思力で喫煙をぐっと我慢し、ついには禁煙を果たした人の努力を理解したい。それはそれは賞賛に値する努力だと思う。その根性は見習うべき価値があるでしょう。
だけども残念ながら、僕にはそのどちらも理解する能力が欠けているのです。
「なんでタバコやめられないの?」とこどものように訊いたら、きっとぶんなぐられるに違いありません。お前だってスパスパ吸ってた時期があるじゃないかっ。自分だけ禁煙に成功したからって偉そうな顔するんじゃねーよ! と怒りの鉄槌が飛んでくるでしょう。それはよーくわかるんですが、あえて言わせてもらいます。僕は禁煙なんかしたことはありません。
ある日、突然なんとなくふとタバコが吸いたく無くなって、それ以来ぷつりと止めてしまったんです。何の苦痛も伴いませんでした。その日まだ箱に数本残ってるから、もったいないから吸ってしまおうと思い、口にして火をつけてみました。まずい。美味しく無い。とてもじゃないが半分も吸いきれず、そのままゴミ箱に直行。実にあっけない喫煙とのお別れでした。
これを「禁煙」と呼べるのでしょうか。強い意思力どころか普通の意思も発揮していません。我慢のがの字もありません。ただ単に吸いたくなったら吸うけど、吸いたく無くなったら吸わないという、本能の赴くままにしていたところタバコが嫌いになっただけの話で、全く以て「禁煙成功者」と呼ばれるに値しないちっぽけで気ままな人間、それが僕なのです。ですから禁煙に苦労している人を見ると申し訳なくて小さくなっています。「どうやって禁煙に成功したの?」と訊かれると一番困ってしまいます。
タバコを止められない人の気持ちがわからない、そんな想像力の欠如した自分が嫌なわけですが、考えてみれば体質などが違えばもはや理解できないことってあって当然だと思えてきました。自転車に乗れないこどもは、自転車に乗れるこどもの気持ちがわからない。ある日ふと自転車に乗れるようになると、自転車に乗れなかった頃の自分がもはや理解できない。それに似ているのかもしれません。
一番残念なのは、これから禁煙しようとしている人にアドバイスの一つもしてあげられない、ってことでしょうか。
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この分野に詳しい友人の医師からFBでさっそく教えてもらいました。
つまるところニコチンとの親和性において個人差がとっても大きいというだけの話。
親和性の高い人は禁煙するのに相当な努力を要するそうであります。
私も同じでした。
辞めようと思って辞めたから 「辞められない」という意味がわからないのです。
辞められないなら 辞めたくないじゃない?って。
私はやめたいから辞めたので吸いたく無いんですよね。
だからまったく苦痛じゃなかったんです。
自然とぽつりと買わなくなっただけでした。